徳寿宮・重明殿

トクスグン・チュンミョンジョン덕수궁 중명전

閉店・移転、情報の修正などの報告

第二次日韓協約を締結した場所。1897年以来、幾多の受難を経験した歴史の現場。

こんにちは、ソウルナビです。今日は今年(2010年)8月19日に一般公開された徳寿宮・重明殿をご紹介しましょう。こちらは1897年、現在の貞洞劇場の裏手に皇室図書館として竣工されたあと、徳寿宮火災時には高宗(コジョン・李朝第26代王、1852~1919、在位1863~1907)が移住したところであり、また1905年には日韓の歴史的な協約、第二次日韓協約が結ばれた歴史の現場でもあります。その後2007年に徳寿宮とともに国家指定文化財に指定され、2010年に復元工事が完了するまでの100年以上もの間、幾多の受難を経験した重明殿。一般公開と同時に1日6回ガイド付きの無料観覧がスタートしたので、先日ナビも参加してきました。

徳寿宮(トクスグン)・重明殿(チュンミョンジョン)


まず徳寿宮はご存知の方も多いと思いますが、ソウル市庁前にある宮殿で、もともと成宗(ソンジョン・李朝第9代王)の兄である月山大君(ウォルサンテグン)が住んでいた邸宅でした。豊臣秀吉による文禄・慶長の役が勃発した翌年の1593年、避難先からソウルに戻ってきた宣祖(ソンジョ・李朝第14代王、1552~1608)が、月山大君が住んでいたこの邸宅を臨時の王宮として使用したところでもあり。この徳寿宮横の有名なトルダムギル(石垣通り)を西大門方面に5分ほど進むと、路地の奥に重明殿があります。徳寿宮と重明殿、今ではこのように少し離れた位置関係になっていますが、1910年ごろまでは徳寿宮の敷地内にあったものなんだそうです。

重明殿の歴史

観覧コースにご案内する前に、重明殿について少し勉強しておきましょう。
1897年に皇室図書館として建てられたあと、数度による火災・再建、高宗の徳寿宮からの移住、第二次日韓協約締結、そして一時は民間の社交場としても使われたりと、この100年以上の間にさまざまな事件・事故が起こった歴史の現場だったことが分かります。

1897年 貞洞女学堂跡に皇室図書館「重明殿」竣工
1901年 重明殿火災、再建
1904年 慶雲宮(現在の徳寿宮)の大火災、高宗(光武皇帝)が重明殿へ移住
1905年 第二次日韓協約を強制
1907年 4月 高宗、ヘーグ特使派遣/8月 英親王の皇太子冊立
1915年 外国人の社交クラブとして使われる
1925年 火災により全焼、再建
1963年 英親王と李方子女史に寄贈
1976年 民間に売却
1983年 ソウル市有形文化財第53号に指定
2003年 貞洞劇場が引き取る
2006年 文化財庁が引き取る
2007年 徳寿宮とともに国家指定文化財・史跡第124号に指定
2010年 文化財丁による重明殿復元工事終了
2010年8月29日 一般公開開始

観覧コースに参加しよう。

館内には重明殿の歴史や関連の事件などが分かる関連資料が展示されています。韓国語だけの説明なので、ガイドの方と行かれるか、留学生の方ならお友達の韓国人と一緒に行かれてもいいかもしれません。申込みはインターネットまたは現地での直接申込みがあり、インターネットは住民番号が必要となります。韓国在住の方は外国人登録番号で申込みできますが、観光で来られる方は現地で直接申し込みましょう。観覧時間、観覧人数などは決まっているので、詳しい内容はその他情報欄を参照くださいね。公開したばかりなので参加者が多いですが、午前の回は比較的キャンセルが多いとのことです。
集合は重明殿
ナビは今回、朝一の10時のコースに参加してみました。ぎりぎりに着くと、もうすでに地元の方が座って待っていました。まずは係りのスタッフに名前を確認してもらい、スリッパに履き替えて中に入ります。

さっそく、観覧スタートです。
まずは入口右側のお部屋から。こちらには重明殿の模型、そして徳寿宮の領域図がまず目に入ります。
重明殿の誕生
この重明殿は徳寿宮のイメージとは違い、赤レンガを使った西洋風の建物になっています。というのも、その当時の王である高宗は近代文物を積極的に取り入れていて、この重明殿もロシア人の建築家サバチンに設計させたとか。このサバチンは1883年に韓国政府に雇われ、仁川とソウルを拠点に活動し、1904年の日露戦争勃発により祖国に帰るまでの約20年間を韓国で多くの近代西洋式の建物を残しました。この部屋にはこのサバチンに関する資料、建物の外観や内部の写真資料、当時歴代の王がこちらで撮った写真などが展示されています。
これは(写真下)徳寿宮の敷地の変遷が示された地図。黄色い部分が現在の徳寿宮、重明殿。茶色い部分は1910年ごろの徳寿宮の領域。現在では徳寿宮と重明殿が離れたところに位置していますが、もともとは宮の領域内にある殿閣でした。日本植民地時代に大部分の殿閣が壊され、現在の徳寿宮は元の領域の3分の1程度になりました。

第二次日韓協約(乙巳条約)締結時の現場
次は入口左手の部屋に移ります。こちらは第二次日韓協約(乙巳条約)締結時の歴史的な資料が展示され、条約締結前後の出来事、その当時の現場の様子が分かるようになっています。10月27日の日本の駐屯軍の支援から、日本が軍隊を動員して重明殿に進入し、11月18日に高宗に条約を締結させるまでの状況が日ごとに記されています。この条約締結により、韓国の外交権が奪われ、朝鮮総督府が設けられることになります。
主権回復のために大韓帝国の闘争・ヘーグ特使の挑戦と挫折
協約締結のあと、国・国民全体で主権回復のための闘争がはじまります。その関連資料が奥の部屋に展示されています。高宗皇帝は大韓帝国の守護条約を締結した各国の首脳に親書を送り、協約が無効であることを訴え、1907年、ヘーグで開かれた第2次平和会議に韓国から特使を派遣しますが、その前に日本が各国に手をまわし、特使は会議場に入ることはできませんでした。

高宗と重明殿
建物の2階奥の部屋に移動します。こちらは向かって右手には韓国最古といわれる太極旗(本物は国立中央博物館に展示)が、正面には高宗のオジン(御真、王の肖像画)、そして左手には高宗の皇帝オセ(御璽)と一枝梅の屏風が展示されています。
冒頭でも触れたとおり、ここ重明殿は1904年の徳寿宮の火災時に、高宗(コジョン・李朝第26代王、1852~1919、在位1863~1907)が移住してきたところ。1907年9月、純宗が慶雲宮(現、徳寿宮)に移り住むまでの約3年半の間、高宗はここ重明殿にて国事を行いました。
観覧時間は約1時間。ナビが観覧を終えて出てきたら、次の観覧の参加者が待機していました。その中に日本のご家族もいらっしゃいましたよ。今まで100年以上に渡る変遷を経て、このたび資料をもとに復元された重明殿。韓国の受難の歴史を垣間見ることのできる建物です。観覧予約が現地申込みとなってしまいますが、興味のある方は一度足を運んでみてはいかがでしょうか?以上、ソウルナビでした。

記事登録日:2010-09-08

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上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

スポット登録日:2010-09-08

スポット更新日:2012-05-24

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