李朝時代の歴代王と王妃、のちに称号を贈られた王と王妃、功臣の位牌を祀った祀堂!
こんにちは、ソウルナビです。今日は1995年12月、八万大蔵経板(パルマンテジャンキョンパン・国宝第32号。高麗時代に仏教の三蔵を漢訳したもの。経板の合計8万1258板)、石窟庵(ソックラム・国宝第24号。韓国を代表する石窟の寺)とともにユネスコの世界文化遺産に登録された宗廟(チョンミョ)についてご紹介します。宗廟は李氏朝鮮王朝の歴代王と王妃や功臣の位牌(神位)を祀り、祭祀を行っていた場所で、李朝時代の建築物の中で最も整然とし、荘厳かつ神聖な場所。1395年(太祖4年)に建てられて以降、毎年ここで宗廟祭礼儀式を行っています。総面積56,503坪(約186,000平方m)の宗廟は現在史跡第125号に指定、管理され、宗廟内部と宗廟に関連した文化財では正殿(チョンジョン・国宝第227号)、永寧殿(ヨンニョンジョン・宝物第821号)、宗廟祭礼楽(チョンミョチェレアッ・重要無形文化財第1号)、宗廟祭礼(チョンミョチェレ・重要無形文化財第56号)などがあります。それではさっそく宗廟についてさらにくわしく見ていきましょう。ここは皆さんもご存知のとおり、とっても神聖な場所。ナビだけでなく皆さんも心を落ち着かせて~はいっ!それではいよいよ入場です!
計163位の位牌を祀った宗廟は、自然、地勢に順応して建築された独特で固有な建築物!宗廟は上でも説明したように、李氏朝鮮時代の歴代王と王妃の位牌を祀った神宮。1394年(太祖3年、太祖[テジョ]は李朝第1代王、1335~1408、在位1392~1398)10月、朝鮮王朝が漢城(現在のソウル)に遷都、同年12月に着工され、翌年9月に完成しました。その際、開城(高麗の首都)から太祖から4代祖である穆祖(モッジョ)・翼祖(イッジョ)・度祖(ドジョ)・桓祖(ファンジョ)の位牌を宗廟へ移し、安置しました。歳月が流れるにつれて宗廟に祀る位牌が増え、現在では正殿の19室に、太祖から純宗(スンジョン・李朝第27代王で李朝最後の王、1874~1926、在位1907~1910)までの48位の位牌が、永寧殿の16室に太祖の4代祖である穆祖から桓祖など主に死後称号を贈られた王と王妃を中心とした32位の位牌が、そして正殿の庭前にある功臣堂(コンシンダン)には李氏朝鮮時代の功臣83位の位牌がそれぞれ祀られています。このように、宗廟は位牌の数が多くなるにしたがって既存の建物の側面に相次いで増築を行ったため、李朝時代の他の建築物とは違い、独特で固有の空間形式をもつようになりました。宗廟建築の特徴は、自然、地勢に順応し、建物の軸を統一せず、それぞれの建物が個別の軸に沿って建てられていること。それぞれの建物自体は対称でありながら、建物の全体的は配置は非対称構造になっています。
日本語無料ガイド有り!それでは本格的に宗廟の中へ!宗廟の正門である蒼葉門(チャンヨッムン)左側にチケット売場がありますので、そこでチケットを買ったら蒼葉門から入ってください。入るとすぐにチケット売場の係員がチケットを受け取り、半券を返してくれます。その横には観覧案内をしてくれるインフォメーションセンターがあり、ここで宗廟を観覧する前に案内パンフレットももらうことができます。日本語無料ガイドをご希望の方は、毎日(宗廟の休館日である火曜日は除く)この場所で待っていると文化財案内員よりガイドしてもらえます。
さあ~それでは宗廟の観覧へとまいりましょう!(^-^)おおっとその前に!下の順序は宗廟案内図に表示されている番号と一致していますが、進むコースは観覧しやすさを考慮して、宗廟内にある案内図とは少し変えて編集しています。
※2010年5月から、宗廟は毎週土曜日を除き、解説者のガイド付き観覧のみ可能となりました。
火曜日と土曜日を除く毎日、決められた時間に言語別(韓国語、日本語、英語、中国語)の解説者と一緒に回るコースになります(案内時間は基本情報を参照ください)。
毎週土曜日は今まで通り自由観覧となります。
宗廟案内図
1.蒼葉門(チャンヨッムン) : 宗廟の正門である蒼葉門は、四廟(高祖の父母、曾祖父母、祖父母、父母4代の位牌を安置した祀堂)を代表する門らしく、宮殿の正門とは異なり、構造形態がとても簡潔で品のあるのが特徴。例えば景福宮の正門である光化門は5色使用、階数も2階までと華麗で勇壮なのに比べ、蒼葉門は赤と緑の2色だけを使用し、階数も1階だけとシンプルで控えめ。蒼葉門はもともと前面中央にあった階段で上り下りできるようになっていましたのが、日本の植民地時代に道路をつくる際に道路面が高くなったため地面に埋まってしまい、現在はたったひとつ、長台石(長方形の石材)の基壇のみが残っているだけです。正門の左右は宗廟の外郭を囲む塀とつながり、正門の外には「ここに来れば身分の上下に関わらず全員馬から降りろ」という言葉が込められている下馬碑(石碑)と、ソウル特別市有形文化財第56号に指定されている御井(イジョン・井戸)があります。
2.神香路(シンヒャンノ)、御路(オロ)、世子路(セジャロ) : 蒼葉門を入っていくと、地面の上にザラザラで平らな薄石(バッソッ)を用い、3筋ある道のひとつに長く敷いてあるのを見ることができます。よく見てみると真ん中の道が左右の道よりも少し高くなっているのがわかるかと思います。この3つの道にはそれぞれ意味が込められていて、最も高い真ん中の道を「神香路」、東側を「御路」、西側を「世子路」といいます。ちなみに真ん中の最も高い道は神が通る道。ここはあんまり通らないほうがいいでしょう?(^-^)
3.中池塘(チュンジダン) : 望廟楼(マンミョル)の横にある池で、1443年(世宗25年)に造られたもの。四角形の池の真ん中には丸い島があります。これは「天圓地方(天は丸く地は四角である)思想」と「陰陽思想」に深く関わりがあり、四角形の池は地を象徴すると同時に「陰」を意味し、丸い島は天を象徴すると同時に「陽」を象徴しているそうです。また、ほとんどの宮殿の池には松の木が植えられていますが、ここにはイブキ(ヒャンナム)が植えられていることと、中央の島にあずまやがないということが特徴!中池塘に蓮の花がなく、周辺にも花の咲く木が植えられていないのは、祭礼空間という特徴からだそうです。
4.望廟楼(マンミョル):祭祀を行うときに王が休息をとる場所。望廟楼という名前は「宗廟の正殿を眺めながら先代の王の業績と宗廟社稷(チョンミョサジッ・王朝時代に王室と国をあわせていう言葉)を考える」という意味からつけられたそうです。望廟楼の特徴は、建物の西側1間が高床の板の間になっていることと、宗廟の建築物のなかで唯一「八作屋根(軒の四隅が上に持ち上がっている韓国式の屋根)」形態となっているところ!
5.恭愍王神堂(コンミンワンシンダン):高麗王朝第31代王である恭愍王のために宗廟創建時に建立され、正式名称は「高麗恭愍王影幀奉安之堂」といいます。朝鮮王朝の位牌を祀った場所に高麗の恭愍王をいっしょに祀ったのは特別なことで、これに関連する特別な文献記録はなく、その由来を調べてみると、宗廟を建立するときに北側からつむじ風が吹き恭愍王の影像(肖像が書かれた掛け軸)が廟庭に落ち、王と臣下が論議の末、その影像を奉安するためにこの神堂を建てたのがはじまりとか。(^-^) 神堂内部には恭愍王と王妃の魯国大長公主(ノグッテジャンコンジュ)をいっしょに描いた影像と駿馬図がそれぞれ奉安されています(もちろん複製品)。文禄・慶長の役(1592年)のときに焼失したものを、1608年(光海君元年、光海君は李朝第15代王、1575~1641、在位1608~1623)に再建されました。祭祀は春と秋に行われたそうです。
6.香大庁(ヒャンデチョン):宗廟で使用する香祝幣と祭祀を行うときの礼物(供え物)を保管し、祭祀に出る祭官が待機していた場所。南北に長い庭を間に挟み、東と西側に建物が配置されています。現在は出入りが制限されています。
7.御楽室(オスッシル):宗廟の正殿東南側に位置する御楽室は、王が祭礼を行う前に斎戒沐浴して衣服を清め、世子とともに祭祀を行う準備をしていた場所。斎宮(チェグン)、または御斎室(オジェシル)ともいいます。王をはじめとする祭官は、祭祀を行う7日前から飲酒歌舞が禁じられ、弔問も行かず、死刑の執行や宣告もせず、また夫婦が床を共にしなかったそうです。そして祭祀の3日前からは毎日沐浴をし、祭祀の前日にここ御楽室に来ることになっていたそうです。塀で囲まれた御楽室の区域内には、北側に御斎室(オジェシル)、東側に世子斎室(セジャジェシル)、西側に御沐浴聴(オモッヨッチョン)があり、祭礼時に王と世子は御楽室の正門を入り、斎戒沐浴後に祭礼服に着替え、西門を出て正殿の東門をくぐって祭礼を行いました。御楽室は、正殿の規模が大きくなるたびに東のほうへ、東のほうへと移動して建てられたそうです。
8.版位台(パンウィデ):祭祀を行う前にしばしここで足を止め、祭祀を行う準備をしたり、祭礼の準備が終わっていない場合にここに立って準備が終わるまで待っている、一種の待機場所。祭礼のときに王と世子は、御楽室で斎戒沐浴をした後、御楽室から御路を通って正殿の東門前にある殿下版位(チョナパンウィ)と世子版位(セジャパンウィ)に行き、しばし足を止めて祭祀を行う準備を整えます。ちなみに王が直接祭祀を行うときには、王が初献官(チョホングァン、祭祀を行うとき最初に酒杯を奉げる臨時の官職)、王世子が亜献官(アホングァン、2番目に酒杯を奉げる臨時の官職)、領議政(ヨンウィジョン、現在の国務総理職にあたる)が終献官(チョンホングァン、最後の3番目に酒杯を奉げる臨時の官職)の役割を担当します。
9.犠牲台(ヒセンデ)と饌幕壇(チャンマッダン):版位台と典祀庁の間には「饌幕壇」と「犠牲台」という場所がそれぞれあります。饌幕壇は祭礼のときに使われる食べ物を前もって検査していた壇。犠牲台は牲省台(センソンデ)とも呼ばれ、祭礼のときに供える牛、羊、豚を検査していた場所です。
10.守僕房(スボッパン):祭祀の準備をしていた官奴と下級官吏が住んでいた場所。正殿の一郭の中で最も素朴な建物です。
11.典祀庁(チョンサチョン):宗廟祭礼のときに使用する器や物、運搬器具などを保管し、食べ物を準備していた場所。庭を中心に建物を「□」型に配置し、庭には礼物(供え物)を準備していた石臼などの跡が残っています。
12.祭井(チェジョン):宗廟祭礼のときに使用される水をくんでいた井戸。花崗岩で丸い井戸枠を作り、周辺をきれいに整備し井戸の周囲に低い囲いをし、一般人の接近を妨げました。井戸の南側に4つの柱でできた四柱門(サジュムン)を建てて往来できるようにし、流れる水は西側に排水できるよう処理しました。井戸の深さは地表から約4mで、干ばつでも井戸は涸れず、きれいで冷たい水だったそうです。
13.正殿(チョンジョン):国宝第227号。宗廟の中心の建物で、もともと宗廟とよばれていましたが、永寧殿が建てられてからは太廟(テミョ)と呼ばれたりもしました。李朝時代の初期には太祖の4代祖の位牌を祀り、それ以降は当時の在位王の4代祖と歴代王のなかでも特に功績のある王と王妃の位牌を祀り、祭祀を行いました。現在正殿には西側を最も上とし、第1室である西側1番目の間に祀った太祖(1代目)の位牌をはじめ、李氏朝鮮の最後の皇帝である純宗皇帝(スンジョンファンジェ・27代)まで、各王と王妃あわせて計49位の位牌が19室に祀られています。正殿の建築様式は単純ですが、韓国の単一建物としては最長の建物(101m)で、前面に長く整えた石を積み上げて作った広い月台(東西109m、南北69m)を置き、祀廟建築としての品位と荘重さを表わしています。このように建物が長い理由は、朝鮮王朝が続き奉安する歴代王の位牌が増えたことで、幾度にわたって建物を横に増築していったからだそうです。
14.功臣堂(コンシンダン):正殿の廟庭下月台の南側右下に位置する建物で、朝鮮王朝の歴代功臣の位牌を祀った場所。創建時に3間にすぎなかったものが以降9間に増え、現在は16間もある長い建物になりました。ここに王の神室もありますがその格式は多少低くなっていて、位牌を祀っている他の建物と同じく4面ある壁のうち3面がレンガでふさがれています。功臣堂には李朝太祖の功臣をはじめとし、27代目純宗皇帝まで正殿に祀った歴代王の功臣の位牌83位を祀っています。
15.七祀堂(チルサダン):季節ごとの7人の小神の位牌を、北側を上位に建物内部に祀った祀堂。宗廟創建時から正殿の廟庭、下月台南側の左下に位置しています。功臣堂と同じく4面ある壁のうち3面がレンガになっています。
16.永寧殿(ヨンニョンジョン):宝物(国宝と重文の中間)第821号。 永寧殿は、正殿にずっと祀られていなかった王と王妃の位牌を移動し、祭祀を行った別廟で、1421年(世宗3年、世宗[セジョン]は李朝第4代王、1397~1450、在位1418~1450)、定宗(チョンジョン、李朝第2代王、1357~1419、在位1399~1400)の位牌を宗廟に奉納するときに正殿の空間が不足していたため、別途建立されました。永寧殿の「永寧」とは祖宗(チョジョン・国王の先祖)と子孫の道が共に平安であるように」という意味が込めれれています。永寧殿の建物と廟庭の規模は正殿よりも小さく、2つの建物の階級の違いを表わしています。また永寧殿は、真ん中の太祖の4代祖を祀った4間を、その左右の夾室(横に付属した小部屋)6間よりも高くし、階級を区別しています。左右の夾室6間には定宗(2代)、文宗(ムンジョン・5代)、端宗(タンジョン・6代)など正殿に祀られなかった王と王妃、そしてのちに称号を贈られた王と王妃のあわせて34位の位牌が16室に祀られています。
17.祭器庫(チェギゴ):正殿の祭器は正殿東側の夾室2間に保管され、永寧殿の祭器は永寧殿東側に別に祭器庫があり、そこに保管されています。正面4間、側面1間の大きさで、前面に出入口が2つと格子窓、残りの面をレンガで囲ってあります。
18.楽工庁(アッコンチョン):宗廟祭礼のときに音楽を担当した人々が準備、待機していた場所。楽工庁は、正殿と永寧殿外の西側にそれぞれ別にあります。この楽工庁は現在残っているものだけでは正確な内部構造がわかりにくく、正殿の楽工庁は、永寧殿に付属する楽工庁に比べて規模面では約4倍ほど大きいです。この周辺に設置されているスピーカーを通じて、昔の楽工庁の楽員が演奏している韓国伝統音楽を聴くことができます。
19.宗廟と昌慶宮をつなぐ連絡橋:
->廃止されました。
宗廟と昌慶宮を往来できていた連絡橋。この連絡橋は1938年、京城府が発行した京城土木事業概要によると、日本の植民地時代に道路の計画が推進され、この連絡橋の下の道が通じたのですが、これには王宮の昌徳宮(チャンドックン)と宗廟の地脈を意図的に切断したという疑いがもたれているそう。 2010年5月から橋は廃止されて通行はできなくなり、2012年4月現在、道路をトンネル化し元の姿に復元する工事が行われてます。
以上、宗廟についてお届けしました。皆さんも慎んだ気持ちを持って観覧されましたでしょうか?(^-^)李氏朝鮮時代、正殿では毎年春・夏・秋・冬と師走(陰暦12月)に大きな祭祀を行い、永寧殿では毎年春秋と師走に祭享日(祭祀を行う日)を別に設けて祭礼を行ったそうです。それほど宗廟での祭礼は国の最高行事であり、王朝の正統性を明らかにする統治秩序の基本でした。宗廟祭礼は日本の植民地時代に一度中断されましたが、独立後の1965年から宗廟祭礼保存会により毎年5月の第1日曜日に1度だけ奉安されるようになりました。、ちなみに宗廟の正門・蒼葉門前には宗廟市民公園がありますが、ここはソウル市内でお年寄りがもっとも集まる公園で、散歩や一休みにくるお年寄りで一日中にぎやかな憩いの空間となっています。それでは、宗廟からソウルナビがお伝えしました。