600年の歴史をそのままに伝える李朝時代の正宮・景福宮!ソウル市内の宮殿でナンバーワン!
こんにちは、ソウルナビです。今日は李朝時代の正宮「景福宮(キョンボックン)」についてご紹介しましょう。ソウル市内にある5大王宮の中でも12万6337坪(416,990平方m)と最も規模が大きく、また建築美に優れた宮殿が評価されている景福宮は1395年(太祖4年)に創建され、現在は国の史跡第117号に指定されている古宮。景福宮内にも数多くの文化財があり、敷地内には国立古宮博物館や国立民俗博物館もあり、ソウルに来たら必ず行っておきたい場所ナンバーワン!それではさっそくナビと一緒に景福宮の観覧に出かけましょう!
1395年(太祖4年)に創建された李朝の正宮!!
まず景福宮についてくわしく説明しましょう。景福宮は1395年(太祖4年)創建された朝鮮王朝の正宮。1392年、朝鮮を建国した李成桂(イ・ソンゲ)は首都遷都を決定し、即位から3年後の1395年、高麗の首都だった開京(ケギョン・現在の開城(ケソン))から首都を漢陽(ハニャン、現在のソウル)に移転。景福宮はその過程で造られた宮殿で、現在の青瓦台(チョンワデ・大統領官邸)のような機能を果たすまさに、王朝の心臓部でした。ちなみに景福宮の「景福」は「詩経」に出てくる言葉で、王とその子孫、すべての人民(百姓)が太平の御代の大きな幸せを得ることを願う、という意味。また、景福宮の背後には白岳山(ペックァッサン)がそびえ、山から見て左側に宗廟が、右側には社稷がそれぞれ位置。昔、古代中国の周で定められた宮城の様式にそのまま従い、礼にかなうように建てられました。しかし中国とは異なり、宮殿を市内の北方ではなく西方の白岳山のふもとにおきました。 これは自然に依拠して家を建てるという韓国人従来の考えが反映されたため。山が多い韓国では人々は家を建てるとき、風水地理に基づき山の形態や水の流れを考慮し、家を建てる位置をきめました。景福宮を建てる時にも風水地理を考え、王宮を市内の北方におかず、ソウルの代表的な山である白岳山のふもとにおいたというわけなのです。
復元工事は2025年に完了の予定!
景福宮は1592年(宣祖25年)、豊臣秀吉による壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の戦火によって全焼するという悲運にみまわれ、それ以降、王宮としても不吉だという理由で273年もの間、再建されませんでした。しかし1865年(高宗2年)、興宣大院君(フンソンデウォングン)が再建に着手し、1868年(高宗5年)には創建当時の規模に復元。同年7月に高宗が昌徳宮(チャンドックン)からこの地に王宮を移しました。しかし1895年(高宗32年)、閔妃(ミンビ)が日本人の暴徒に殺害されるという事件が起こり、翌年2月に高宗がロシア公館に避難したことで景福宮は王宮としての運命を終えることになりました。そして1910年、日韓併合によって日本の統治下になると、景福宮内にあった約200の殿閣のほとんどが壊され、慶会楼(キョンフェル)や勤政殿(クンジョンジョン)などの10棟のみが残り、さらに日本が勤政殿の南側正面に朝鮮総督府庁舎を建てたことにより、景福宮の景観は完全に破壊されてしまいました。日本の植民地から解放された後の1945年から朝鮮総督府は政府の中央庁舎、その後は国立博物館として使われましたが、景福宮復元事業(1991年6月5日起工)に合わせて1996年11月14日、総督府の建物が完全に撤去されました。そして現在も少しずつ景福宮のもとの姿を取り戻すために復元工事の真っ最中。この復元工事が終わるのは2025年のこと!ちなみに復元の基準は景福宮が最後に完成した1868年時点で、その当時の姿を再現する予定だそうです。
地下鉄3号線景福宮駅5番出口と連結!
それではこれから本格的に景福宮の観覧とまいりましょう!地下鉄3号線キョンボックン(景福宮・Gyeongbokgung:327)駅5番出口を出ると光化門(クァンファムン)と興礼門(フンレムン)の間に広~い広場が!心までもがパアーッと広がるような気分になります!
チケットを買おう!
その広~い広場の端(光化門を背にしたら右側)に券売所があるので、そこで観覧券を買います。また、券売所の隣りにはデジダルガイドの貸出所がありますよ。デジダルガイドは1台3,000ウォンで、身分証と引き換えに閉館の30分前までレンタル可能です。
日本語ガイドあり!
興礼門(フンネムン)を入り、すぐ右側(永済橋(ヨンジェギョ)という橋を渡る前)を見ると案内所があります。日本語の場合は毎日(景福宮の休館日である火曜日は除き)決まった時間にボランティアの方と一緒に景福宮を回り、くわしい説明を聞くことができます(くわしい時間は基本情報参照)。参加方法は、時間に合わせて案内所前に集まればそれでOK!
さあ~それでは景福宮を見て回りましょう!!
ナビ的!景福宮の歩き方
先ほどもふれたように景福宮はソウル市内にある5大王宮の中でも最も規模が大きな古宮。全てをじっくり見て回ろうと思うと1日じゃとってもたりない!?そこでビギナーさんへオススメな「ここだけは押さえよう!景福宮の基本コース」ともっとじっくり見たい人向けの「景福宮じっくりコース」の2つに分けてご紹介します。
1.光化門と宮廷の石垣(光化門・興礼門・維和門) 2.勤政殿一帯(永済橋・勤政殿・勤政門) 3.思政殿一帯(思政殿・萬春殿・千秋殿) 4.康寧殿と交泰殿(康寧殿・交泰殿・峨嵋山・慶成殿・誕生殿) 5.欽敬閣と含元殿(欽敬閣・含元殿) 6.慈慶殿 7.東宮一帯(資善堂・丕賢閣) 8.咸和堂と緝敬堂 9.香遠亭と乾清宮 10.集玉斎一帯(集玉斎・協吉堂・八隅亭) 11.泰元殿一帯 12.慶会楼 13.修政殿
※記事内の番号は景福宮内の案内図に表示されている番号と一致していますが、記事の構成上、説明順は異なります。また、景福宮が好きすぎて景福宮の案内図より詳しく説明したいナビ^^ 景福宮の案内図に記載されてない場所はカッコ書きの中に名前を付け加えているので参考にしてみてくだいね。
ここだけは押さえよう!景福宮☆基本コース!
まずは、ビギナーさん向け「ここだけは押さえよう!景福宮☆基本コース!」。古宮にはあまり興味はないけど、せっかく韓国に来たんだから、1箇所ぐらいは見ておこうかな!って方はビギナーコースを見て回るだけでも、十分景福宮を満喫できますよヨ!
1.光化門(クァンファムン・광화문):
1395年(太祖4年)に初めて建てられた光化門は、景福宮の正門で王室と国家の権威を象徴していた門。日韓併合後の1927年、朝鮮総督府の建物が建てられたことによって解体され、現在の国立民俗博物館の入口側に移転されました。解放後の1950年、朝鮮戦争の時に焼失してしまいましたが、1968年2月、現在の位置に移転し、復元されました。光化門は全体的に均衡と調和を成し、壮麗な外観を持つ最も優れた闕門(王宮の門)という高い評価を受けていてます。
1.興礼門(フンレムン・흥례문):
光化門と勤政門(クンジョンムン)の南北の中心軸線上に位置する2階建ての建物で、1916年に朝鮮総督府が建てられたことで、興礼門をはじめとする行閣などが撤去されました。しかし2001年10月、85年ぶりに興礼門と興礼門の周辺が復元され、昔の姿を取り戻しました。ちなみに李朝の正宮である景福宮は古代東洋の制にしたがい、全部で3つの大門があります。1つめが外側を代表する光化門、2つめが景福宮全体の大門である興礼門、そして3つめが朝礼が行われていた勤政殿の出入口である勤政門。ふだん宮殿の外から勤政殿に出入りする時は、光化門と興礼門、勤政門を通ることになります。また興礼門と勤政門にわたる空間は王を護衛する兵器や軍事訓練を担当する近衛隊が配置された場所。こちらで王の安全が最優先されていました。
2.勤政殿(クンジョンジョン・근정전):
国宝第223号。勤政殿は景福宮の正殿として当時、宮殿の正殿の建物の中では最も大きく、多包様式の建物で現存する最大の木造建築物。勤政殿では王が臣下の朝礼を受け、公式な国家儀式を行ったり、宴会が催され、また外国の使臣との接見が行われました。宮殿は2階建てで、中をのぞくと1階と2階が吹き抜けになっていて、天井まで見渡すことができます。天井中央の竜の姿や丹青(王宮などの木造建築の壁、柱、天井などにさまざまな文様を鮮やかな色彩で描くこと)など華麗さと雄壮さを兼ね備えた優れた建築物です。勤政殿は1395年(太祖4年)建立されましたが、文禄・慶長の役で焼けてしまい、その後李朝末期の1867年(高宗4年)11月に興宣大院君が再建、2001年に復元工事が終了しました。
12.慶会楼(キョンフェル・경회루):
国宝第224号。慶会楼は国王と臣下が参席する重要な宴会や外国使臣を接待する宴会場でしたが、誰もが自由に出入りできる場所ではありませんでした。慶会楼は国王と臣下が出会いを楽しむ場所という意味からつけられた名前で、看板の字は太宗(テジョン・李朝第3代王)の王世子(皇太子)だった譲寧大君(ヤンニョンデグン)が書いたもの。池の真ん中には2つの島があり、東側にある四角い島に慶会楼があり、景色もとてもいいところとなっています。1412年(太宗12年)、太宗の命令によって慶会楼は創建されましたが、文禄・慶長の役で焼失。その後、1867年(高宗4年)、興宣大院君によって現在の姿に再建されました。 2005年からは特別観覧が開始され、内部の観覧には事前予約が必要です。
「景福宮じっくりコース」
ツアーなどで何度か見たけど、今回はもっと詳しくじっくり歩いてみたい!という時はビギナーコースにプラスしてゆっくり北門まで見学してみるのもイイかも!
3.思政殿(サジョンジョン・사정전):
勤政殿の後方に位置し、国王が御前会議を行い、各種政策を決定するなど臣下と国事を行っていた便殿(王が居住し、執務を行った宮殿)のひとつ。勤政殿が国家の公式儀式が行われる空間に対し、思政殿は王がふだん居住しながら政事を見きわめていた便殿でした。思政殿の名前には「国王が深く考え、国を治めなければならない」という意味が込められています。ちなみに思政殿の前には天、地などの千字文の名前が付けられた倉庫があり、ここは活字を保管していた活字倉庫と伝えられていますが、倉庫に番号を付けたものだという説もあります。
4.康寧殿(カンニョンジョン・강녕전):
国王が生活する内殿の中心となる建物で、国王が仕事を終えた後に寝室として使われていた場所。康寧殿は1395年(太祖4年)創建され、国王が健康で安らかであれば人民も安らかでいられるという意味から康寧殿という名前がつけられたそう。東西両側に「井」という字の形に9つの部屋を設け、国王はその真ん中の部屋で休み、周りの8つの部屋では女官たちが宿直していました。また、寝殿の室内には家具を置かなかったそう。康寧殿の東側には東の小さな寝殿「東小寝」の延生殿(ヨンセンジョン)、西の小さな寝殿「西小寝」の慶成殿(キョンソンジョン)があり、また延吉堂(ヨンギルダン)などの付属の建物があります。日本統治時代に撤去されましたが、1994年に復元されました。
4.交泰殿(キョテジョン・교태전):
康寧殿のすぐ後ろにあった王妃の寝室で、中宮殿の建物。王妃の住まいなだけに、景福宮の中で最も華麗に飾られ、表は両儀門(ヤンウィムン)で康寧殿と通じ、裏には人工庭園である峨嵋山(アミサン)が広がっています。王妃はここに居住し、内命府のさまざまな仕事を処理していました。交泰殿の名前は陰陽が調和を成す易経の泰卦(六十四卦のひとつ)からとられた名前と言われています。現在の建物は日本統治時代に撤去されたものを1994年に復元したものです。
4.峨嵋山(アミサン・아미산):
人の手によって造られた交泰殿の裏庭。韓国では昔から庭に花壇を造ったりせず、裏庭のほうが充実していました。峨嵋山は中宮殿の深い裏庭で、誰もが出入りできるという場所ではありませんでした。傾斜面には長く整えられた石を4段に積んで花壇を造り、段の上には梅、ボタン、ユスラウメ、クロフネツツジなどの花の咲く木や松の木、エノキ、ケヤキなどを植え、園林が造られました。その間には石鉢、日影台、石蓮池、洗心台(心を洗い清める場所)などの造形物が置かれています。
9.香遠亭(ヒャンウォンジョン・향원정):
1867年、高宗が乾清宮(コンチョングン)を建てる際にその南側に池を掘り、池の真ん中に島を造ってそこに香遠亭を建て、木で造った陸橋に酔香橋(チィヒャンギョ)という名前をつけ、散歩を楽しんだそう。香遠亭は後方の北岳山(ブガッサン)と調和し、素晴らしい姿を誇る代表的な東屋で、オススメスポット。ここは景福宮の中で最も美しい景色が自慢の場所です!
9.乾清宮(コンチョングン・건청궁):
1873年(高宗10年)、 高宗皇帝により建てられ、高宗とその妃の明成(ミョンソン)皇后(閔妃)が暮らした場所。1895年(高宗 32年)、明成皇后が日本からの刺客により殺害された、悲運の場所としても有名。日本統治時代の1915年に撤去されましたが、2007年10月に復元されました。当初は特別観覧のみでしたが現在は一般公開されています。
10.神武門(シンムムン・신무문):
景福宮の北門。1443年(世宗25年)に建設されました。李朝時代は北岳山からの怒気を防ぐためにといつも開けられていたと伝えられています。また神武門を出ると目の前には青瓦台(チョンワデ)があり、写真撮影が可能。
※あまりに青瓦台に近づきすぎると警備中の警察官から注意されることがあるので、ご注意を!
まだまだ続くよ!
ビギナーコース・じっくりコース以外に、景福宮のパンフレットでも詳しく説明されてないところを今回はドドンとご紹介しちゃいます!
1.維和門(ユファムン・유화문):
興礼門を通り過ぎ、永済橋を渡って左側を見ると出入口がひとつありますが、ここが維和門。もともと維和門の外側には大臣が勤政殿などを出入りする以前、集まって国事を論議していた賓庁(ビンチョン)があり、宮殿の外にいた官員は光化門と興礼門、維和門を経て賓庁へ入っていったそうです。
2.勤政門(クンジョンムン・근정문):
宝物(国宝と重要文化財の間)第812号。景福宮の正殿である勤政殿の正門として、1867年(高宗4年)、勤政殿とともに建立されました。現存する李朝王宮の正殿正門のうち、唯一中層の建物として残っている門。勤政門は国家の大行事がある時にのみ使用され、普段は門が閉じられていました。臣下は武班と文班に区別され、文班は東側の日華門(イルファムン)を、武班は西側の月華門(ウォルファムン)を使用していたそう。
2.永済橋(ヨンジェギョ・영제교):
興礼門と勤政門の間に流れていた禁川(クンチョン)の上にかかっていた石橋。1426年(世宗8年)に名前がつけられたといわれています。長さは13.3m、幅が10.3mの永済橋の真ん中には魚道があり、石橋の左右にある花崗石が積まれた護岸には4頭のヘテ(日本のこま犬のようなもので、善悪を見分けることのできる想像上の動物。獅子と似ているが頭の真ん中に角があり、宮殿の左右に石像がある)が立ち、とっても印象的です。
3.万春殿(マンチュンジョン・만춘전):
国王の臣下と国事を行っていた思政殿の東側にあった便殿(王が居住し、執務を行った宮殿)。李朝時代の国王は便殿で臣下と国事について議論し、聖賢の本を読み、時には臣下と宴会を開いたとされています。1867年(高宗4年)、興宣大院君が景福宮を復元する際に建てられましたが、朝鮮戦争(1950年)で焼けてしまいました。現在の建物は1988年に昔の姿に再建されたものです。
3.千秋殿(チョンチュジョン・천추전):
国王が臣下と国事を行っていた思政殿の西側の便殿。この建物は文禄・慶長の役で焼失したのを1865年(高宗2年)に再建したもの。当時、政治・経済・文化の面で優れた業績を残した世宗(セジョン)大王と集賢殿(チピョンジョン・宮中に設置した学問研究機関)の学者たちがここでさまざまな新しい文物を創り出しました。
4.慶成殿(キョンソンジョン・경성전):
康寧殿の西側にある付属の建物。寝殿である康寧殿(カンニョンジョン)の東西両側に置かれた小寝(小寝殿)のうち、西側の方の小寝殿。「天地の生と成をお手本とし、政治を明るくする」という意味から延生殿と慶成殿とつけられたそう。
4.延生殿(ヨンセンジョン・연생전):
康寧殿の東側にある付属の建物で、寝殿である康寧殿(カンニョンジョン)の東西両側に置かれた小寝(小寝殿)のうち、その東側の方の小寝殿。上にもあるように「天地の生と成をお手本とし、政治を明るくする」という意味から延生殿と慶成殿とつけられたそう。
5.欽敬閣(フンギョンガッ・흠경각):
1438年(世宗20年)、蔵英実(科学者)が王命によって建てたもの。時刻と方位、季節を調べることができる化学器具である玉漏機輪が設置されてていました。玉漏機輪は、いわば自動の水時計。1553年(明宗8年)に焼失し、その翌年に再建されましたが、日本統治時代に撤去されました。現在の建物は1995年に復元したものです。
5.含元殿(ハムォンジョン・함원전):
主に仏事を行った場所。いつ建てられたのかは定かではありませんが、世宗の時に建てられたと推定されています。朝鮮王朝は儒教国家でしたが世宗など多くの王と王妃が仏教に心酔していたという記録が残っています。何度かの消失を経て1888年(高宗25年)に復元されましたが、景福宮の他の内殿と同じく1917年の昌徳宮大火災後、昌徳宮再建のために取り壊されました。現在の建物は1995年に復元されたものです。
6.慈慶殿(チャギョンジョン・자경전):
宝物第809号。慈慶殿は景福宮を再建した興宣大院君が、交泰殿東側の紫薇堂(チャミダン)の敷地に趙大妃である神貞皇后(李朝第23代国王・翼宗の妃)のために建てた宮殿。慈慶殿は44間の規模で、西側に必要なときだけ火を焚いて煖房できる寝房・福安堂(ブガンダン)と、昼間滞在する中央の慈慶殿、夏は涼しく過ごせるように東南側の楼閣である清燕楼(チョンヨンル)で構成されています。また慈慶殿の裏庭にある壁と西側の花の壁は、李朝時代を代表する美しい壁となっています。現在の建物は1888年(高宗25年)に再建されたもの。
7.資善堂(チャソンダン・자선당):
東宮の建物の一部として世子(王位を継承する王子のこと)が居住し、王位に就く前に勉強していた場所。北闕図(景福宮の全体配置図)によれば、東宮は世子が百官から朝礼を受けていた正堂である継照堂(ケジョダン)、世子と世子嬪(世子の正妃)の住まいとして使われた内堂の丕賢閣(ピヒョンガッ)、世子が先生を招いて勉強をしていた春坊(チュンバン)、世子を護衛する兵士が留まっていた桂坊(ケバン)などで構成されていたそう。東宮の建物は日本統治時代にすべて撤去され、1999年に資善堂と丕賢閣のみ復元されました。資善堂の周囲を囲む長い回廊の行閣は世子の世話をする女官たちが住んでいた場所で、部屋と大きな棟、台所、門などからなります。
7.丕賢閣(ピヒョンガッ・비현각):
東宮の建物の一部として世子が臣下と国事を議論するときに使用していた場所。文禄・慶長の役(1592年)の時に焼失したものを1867年(高宗4年)に再建し、この場所で純宗(スンジョン・1874~1926・李朝第27代王で最後の王)が最後に王子時代を送りました。現在の建物は日本統治時代に撤去されたのを1999年に復元したもの。
8.緝敬堂(チッギョンダン・집경당):
交泰殿の裏庭である峨嵋山の北側には嬪宮(王世子の妃)が住む数多くの殿閣がありましたが、日本統治時代にほとんどの殿閣と行閣が撤去されてしまいました。現在、緝敬堂と咸和堂だけが残っています。
8.咸和堂(ハンファダン・함화당):
交泰殿の裏庭である峨嵋山の北側に位置する嬪宮(王世子の妃)のひとつ。現在残っている東側の緝敬堂と西側の咸和堂は廊下でつながってます。現在は空き地に建物がポツリと建っていますが、もともとは行閣として一郭を成していたひとつの居住空間でした。
10.集玉斎(チボッジェ・집옥재):
高宗は1891年、昌徳宮にあった集玉斎を乾清宮の西側に移し、書斎や外交使臣接見所として使用しました。煙瓦を積んで両壁麺を作った当時としては珍しい中国清風の建物で、外から見るとシンプルに見えますが、内部は2階建てになっています。また、両側の協吉堂と八隅亭とは廊下で繋がれています。
10.協吉堂(ヒョッキルダン・협길당):
正面から見て集玉斎の右側にある協吉堂。中国清風建築の集玉斎とは違い、韓国固有建築のオンドル部屋があり、休憩場所として使用されていました。
10.八隅亭(パルジョン・팔우정):
正面から見て集玉斎の右側にある八隅亭。八角楼閣で柱の上部には清風の華やかな飾りが付いています。こちらも協吉堂と同様に集玉斎とは廊下で繋がっています。
11.泰元殿(テウォンジョン・태원전):
1868年(高宗5年)、高宗により建立されたと推定されています。泰元殿は太祖(李朝第1代王)の御真影が祀られ、皇后の遺体を奉る殯殿として使用されていました。周囲には永思斎や恭獣斎など儀礼用建物もあり、神聖な一郭を成していました。日本統治時代に撤去されましたが、2006年に現在の姿に復元されました。
13.修政殿(スジョンジョン・수정전):
石を使って高くて広い基壇を造り、その上に建てたこの建物は国王が国事を行っていた便殿と推定されています。もともと世宗大王の時代にハングルが初めて創り出された集賢殿の建物。建物自体は文禄・慶長の役に焼失した後、放置されていましたが1867年(高宗4年)に再建され、名前も「修政殿」とされました。現在、修政殿は1つ取り残された形になっていますが、以前は周りに壁の役割をする長い回廊である行閣が200間近くあり、また周辺には国事を行ういくつかの官庁がありました。
醤庫(チャンコ・장고):
景福宮には味噌・醤油などを保管する大きな醤庫・カメの置き場が2つありました。2005年、発掘調査などに基づいて復元されました。また、2007年からは韓国全土から集めた様々なカメを用途別・地域別に分類して展示しています。
カフェ・お土産・体験スペース
景福宮の中、修政殿(スジョンジョン)の前にはカフェ&お土産店の「ボトゥルマル(버들마루)」があります。たくさん歩き周って疲れた時は飲み物を飲んで休憩したり、お土産を探してみるのもイイかも!ここでしか手に入らないお土産が見つかるかも!?
その他の施設・催し
景福宮の施設内には、国立古宮博物館と国立民俗博物館の2つの博物館があるので、時間のある時は立ち寄ってみるのもイイかも!
また、毎日(休園日を除く)定時には英国王室の近衛兵交代儀式と比較される華やかさ!上品な韓国伝統の宮中文化再現行事「守門将交代儀式」が行われています。
また以前、「ボトゥルマル」にあった伝統衣装が着られる無料体験コーナーですが、現在は光化門を入ってすぐ左側で体験ができます。交代儀式が終わった10時15分から申し込み可能です。
以上、景福宮ラブのナビ景福宮についてお伝えしましたが、いかがでしたか?少しでもお役に立ったでしょうか?復元工事が進み、数年前とはまた違った印象の景福宮。全てを見終わったら、最も美しい景色が自慢の香遠亭のベンチに座って、しばし休息をとってみてはいかが?また景福宮は風水のパワースポットとしても有名な場所なので、皆さんも是非足を運んでみて下さいね☆ それでは香遠亭で景福宮の歴史についてしばし思いにふけるソウルナビがお伝えしました。